黒柳徹子の生い立ちや戦争体験!?家族は?弟は逮捕で実は隠し子?

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黒柳徹子の性格は天然で発達障害?芸人泣かせで友近も?都市伝説は真実?
からの続きです。

 

こんにちは、有名人大好きの
サバ夫です。

 

女優やエッセイスト、そして
「徹子の部屋」の名MCで知られる
黒柳徹子さんはユニセフ親善大使
としての活動でも知られています。

出典

訪問した国はのべ37カ国に上るそうで。

飢餓、戦争、病気などに苦しむ子ども
たちを支える活動を続けてきました。

 

2020年で87歳となった黒柳徹子さん
は太平洋戦争を経験しており。

平和の大切さを広く伝えたい思いが
あるようです。

 

黒柳徹子さんの戦争体験について
プロフィールや家族構成と
ともに調べてみます。

黒柳徹子の生い立ちとプロフィール

黒柳徹子さんは1933年8月9日に
東京都港区乃木坂で生まれました。

 

東洋音楽学校(現東京音楽大学)
声楽科を卒業後、1953年に
NHK放送劇団に入団。

 

NHK専属のテレビ女優第1号
となります。

出典

その後もテレビ、映画、舞台など
マルチに活躍。

 

1976年にテレビ朝日でトーク番組の
「徹子の部屋」で司会を始めますが。

これが長寿番組となり2015年には
放送1万回を達成。

 

同一の司会者によるテレビ番組の
世界最多放送回数記録を現在も更新中
です。

 

1981年には著書の
「窓ぎわのトットちゃん」(講談社)
が国内だけで800万部を超え、
ベストセラーの日本記録を達成。

アメリカやイギリスの英語圏を
はじめ、ドイツ、ロシア、中国、
アラビア語など

35以上の言語に翻訳されている
そうです。

 

受賞歴も勲三等瑞宝章や文化功労者
など数知れず。

 

日本芸能界の発展に大きな貢献を
果たした一人といっていいでしょう。

黒柳徹子は戦争体験

黒柳徹子さんは、太平洋戦争中、
戦況の悪化による食べ物の不足で、
栄養失調に陥ります。

 

体じゅうにおできができてしまい、
爪と爪の間が膿んで痛みを伴う
「ひょうそう」という病気にも
かかりました。

 

食べ物すらないのですから薬も
満足になく、我慢するしかなかった
そうです。

 

1945年3月に東京から青森に疎開。

 

ひょうそうは漁師に譲ってもらった
魚を3回くらい食べたら治ったそう
なので。

「たんぱく質っていうものが人間には
絶対必要だっていうことがすごくよく
分かりましたね」

と振り返ります。

出典

そして、戦後は罪悪感を背負い
生きていると言います。

 

戦争中は兵隊が出征するとき、
近所の人たちが駅に見送りに行き、

日の丸の旗を振りながら「バンザイ」
と叫ぶのが慣習となっていましたが。

 

黒柳徹子さんが暮らしていたところ
では、参加するとスルメの足を一本
くれそうで。

「こんなおいしいもの
があるのかと思って」

 

子どもだった黒柳徹子さんは
食べ物に困る生活の中で、

スルメ欲しさに、何人もの兵隊を
見送るために駅に行き一生懸命、
旗を振ってバンザイしたそうですが。

「子どもが一生懸命
旗振ったんで、頑張ってくるぞ
って思って戦争に行った人がいて、

もしその人が帰ってこなかった
としたら、なんて自分はね、
罪深いことをしたってね」

 

戦争責任とは政府の中枢や軍の人たち
など、少なくとも大人たちだけが
感じるものなのかと思いましたが。

子ども心にも思わせてしまうもの
なのですね。

 

「どんなことがあっても、戦いに行く
人たち、殺し合いに行く人たちを
いってらっしゃいっていうふうに
送るべきじゃなかったっていうふうに
思いますね。今でもね」

 

黒柳徹子さんがユニセフで熱心に
活動を続けてきたのは。

戦争で子どもたちが犠牲になったり、
後々まで悲しい思いを引きずることは
あってはならないという強い思いが
あるのではないでしょうか。
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黒柳徹子の家族は?

黒柳徹子さんは独身を続けて
います。

 

家族は父と母、そして
5人きょうだいで一番上の長女
ようです。

 

写真は黒柳徹子さんが5歳くらいの
時の両親との写真です。

 

父の黒柳守綱さんはバイオリン奏者。

 

NHK交響楽団の前身となる
新交響楽団や、東京交響楽団など、

主要オーケストラでコンサート
マスターを務めた経歴があります。

 

1954年にゴジラシリーズの
1作目となる「ゴジラ」のテーマ音楽
の、収録に参加していることでも有名。

 

1983年に74歳で亡くなっています。

 

母の黒柳朝さんについてはご存じの方
も多いでしょう。

 

東洋音楽学校で黒柳守綱さんと出会っ
て結婚。

 

娘の黒柳徹子さんの著書
「窓ぎわのトットちゃん」が
ベストセラーとなったことで
母の黒柳朝さんにも注目が集まると。

1982年、72歳の時に出版した自伝で
「チョッちゃんが行くわよ」
がベストセラーとなり文才が開花。

1987年にはNHK連続テレビ小説
「チョッちゃん」としてドラマ化
されました。

 

2006年に95歳で大往生するまで
10冊以上の著書を発表しています。

 

黒柳徹子さんが年を重ねても
パワフルなのはお母さん譲りなの
かもしれませんね。
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黒柳徹子の弟は?

黒柳徹子さんは5人きょうだいの
一番上。

 

その下の長男、明児さんは
幼い頃に敗血症で亡くなって
しまいました。

 

次女の眞理さんは元バレリーナで、
結婚と離婚を経て美容家に転身。


出典

著述家として
「Wake up~
心の目を覚まして!」(中西出版)
などの著書もあります。

 

次男の黒柳紀明さんはお父さんの
後を継いだようで、

桐朋学園芸術短大を卒業後、
バイオリニストとなりました。

出典

1971年にNHK交響楽団に入団。

60歳となった2000年に退団後も、
指揮者の宇宿允人さん率いる
オーケストラなどで演奏活動を
続けていました。

 

きょうだいも著名人揃いの
黒柳徹子さんですが

一番下の三男、黒柳貴之さんは
1998年に覚せい剤使用で現行犯
逮捕されています。

 

外資系航空会社の社員で一般人
だったため、
黒柳貴之さんの存在はそれまで
知られていなかったことから。

 

当時は黒柳徹子さんの隠し子説
報じられていますが黒柳徹子さんは
記者会見で否定しています。

 

その後は黒柳貴之さんに関する
情報はほとんど上がっていません。
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さいごに

黒柳徹子さんは2016年7月に、
ジャーナリストの田原総一朗さんとの
共著で
「トットちゃんとソウくんの戦争」
(講談社)を著しました。

 

「戦争は、何も知らない子どもの
心まで深く傷つける。そして、
私たちはそのことを身に染みて
知っている最後の世代だ。

だからこそ、私たちの戦争体験を、
平和のたいせつさを、私たちはこの本
でしっかりと語っておきたいと思う」

 

前述しましたが、黒柳徹子さんは
子どもの時、スルメ欲しさに
兵隊さんを送り出しに行ったことを
「戦争責任」と思い悩んできました。

 

ユニセフの活動でもゲリラの子どもを
産まされた女の子や、
銃を渡され自分の家族を撃て、と命令
された少年兵にも触れてきたという
黒柳徹子さん。

 

今後も平和への活動には使命感を
持って取り組まれていくのでは
ないでしょうか。

 

黒柳徹子の結婚歴は?彼氏は外国人でジャニーさんは元旦那?子供は?森光子?
に続く。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

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