一澤信三郎帆布がカンブリア宮殿に!長男の信太郎の現在とお家騒動のその後は?

お店

こんにちは 🙂

レクです。

 

5月3日放送の『カンブリア宮殿』
一澤信三郎帆布店主、

一澤信三郎さんが出演します。

 

「一澤信三郎帆布」は元々は
老舗といわれる店が多いことで
知られる京都に、

100年以上続く「一澤帆布」という
かばん屋さんだったのはご存知ですか?

 

それがある騒動に巻き込まれ
一澤信三郎さんは伝統ある

「一澤帆布」を一時手放さなくては
ならない事態が過去にあったのです。

 

約10年前に起こった「お家騒動」は
当時連日のようにワイドショーで
報道されていましたね。

 

お家騒動と言えば、ちょっと前の
「大塚家具」を思い出しましたが、

一澤信三郎さんの身に起きた
お家騒動とはどんなもので、

その後どうなったのでしょうか?

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一澤進三郎さんは瀕死状態の「一澤帆布」の救世主だった!


出典

一澤信三郎帆布の前身
「一澤帆布」は、1905年に京都で
創業しました。

 

初代の一澤喜兵衛さんが
クリーニング店を営みながら、

手に入れたアメリカ製のミシンで
牛乳瓶や氷、酒瓶といった

重い物を入れる道具入れを作る
ようになったのが始まりです。

 

しかし、3代目信夫氏の頃には
一澤帆布工業(株)は会社とは
名ばかりで、

1980年頃までは売上高1億円程度の
零細企業。

 

会社は実質的な赤字経営で、
当時給料の支払いにも困るほど
だったといいます。

 

後に4代目となる三男の
一澤信三郎さんは

その当時、
1971年に同志社大学を卒業後、

約9年間朝日新聞社に勤めて
いました。

 

ところが会社を手伝っていた
4男の喜久夫さんは病弱で、

会社に週に2日ほど、しかも昼間しか
出勤してこないような状態になってしまい・・・

 

父の信夫さんも65歳を過ぎ、
十数人の社員も高齢化して、

このままでは廃業になってしまう
ということで1980年信三郎さんは

一澤帆布工業(株)に戻る決心をした
そうです。

 

父・信夫さんは長男の信太郎さんにも
家業を手伝うように求めていた
そうですが、

京都大学を卒業後、東海銀行に
入行していたこともあり、

家業には見向きもしなかったんだとか。

 

三男の信三郞さんが経営に参画して
からは、

日給制だった職人の給料を月給制に
したりなど、会社の形態を整え

2001年には年商10億円を超え、
職人も60人程度抱える企業になりました。

 

ちなみに、病弱の4男の喜久夫さんは
「好きなことをして生きたいから、
もう仕事はしたくない」と宣言し、

途中で退職してしまったそうです。

 

ところが2001年3月15日に
父・信夫さんが死去してから事態が
急変します。

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「一澤帆布」のお家騒動、二通の遺言書とは?

三代目・一澤信夫さんが亡くなり、
生前会社の顧問弁護士に預けていた
遺言書が明らかになります。

 

それは巻紙に毛筆で書き、
実印を押した遺言書で、

株の大半を当時社長だった三男の
信三郎さん夫妻に譲るとした内容でした。

 

ところが、長男・信太郎さんも
「実は僕も預かっている」と遺言書を
出してきました。

 

その遺言書は、市販の便箋に
ボールペンで書かれていて、

押されていた印鑑も見たことのない
「一沢」の印鑑だったそうです。

 

内容も、長年一緒に仕事をしてきた
信三郎さんに宛てたとは思えない、

信三郎さんへの悪口が書き連ねて
あったというのですから、

信憑性ほぼゼロだと私は思ったのですが・・・

 

当然信三郎さんは、信太郎さんが
提出した遺言書を偽物として提訴します。

 

ところが、信太郎さん側の遺言書を
有効とする判決が

2004年12月に最高裁で確定して
しまったのです。

 

そして、翌年信三郎さんは社長の座を
解任されてしまいます。

 

しかし信三郎さんは負けてばかりでは
ありませんでした。

 

元職人を引きつれ、
「一澤信三郎帆布」を立ち上げ再始動。

 

「一澤帆布」の斜め向かいに
オープンさせたのですから、

マスコミは連日大騒ぎだったのを
今でも覚えています。

 

一澤信三郎さんを支持する人も多く、
お店は開店前から行列が出来ていたと
言います。

 

一方、職人にも取引先にもソッポを
向かれ、

会社が休業状態となった
長男・信太郎さんは、

職人を新たに募集し、生産を
外注化して必死に対抗していました。

 

そして再び起こした裁判で2009年6月、
長男・信太郎さんの遺言書を

「無効」とする判決が最高裁で確定し、
信三郎さんは元のサヤに収まり

長男・信太郎さんは創業家の経営を
離れました。


出典

現在の一澤信三郎帆布は解任中の
2006年に立ち上げた新ブランド

「一澤信三郎帆布」と「信三郎鞄」
「一澤帆布製」の3ブランドで展開し、
ネームタグも3種類になっています。

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長男の一澤信太郎さんの現在は?

2011年8月26日に、
長男・信太郎さんの遺言書が偽物と
認定されたわけですが、

信太郎さんは何故そこまでして
会社を手に入れたかったのでしょうか?

 

元東海銀行柴田支店長まで上り詰め、
無事定年を迎えたのですから、

年収や退職金を考えたら、普通の
サラリーマンに比べたら
かなりの額をもらっていたはずです。

 

調べたところ、
銀行の支店長クラスの年収は
約1200~1500万円で、

退職金は3000万くらいだそうですよ。

 

10年以上前のこととは言え、
高給取りだったのは確かです。

 

年商一億の赤字企業だった頃に
父・信夫さんが家業を手伝って
ほしいと申し出た際には断っていた
筈なのに・・・

 

年商10億の大企業になったら
考えが変わった?

なんて、性格の悪い私は
うがった目でつい見てしまいました。

 

信太郎さんは当時、愛知県岡崎市に
住んでいたというのと、

お子さんもいたことですし
京都に行けない事情があったのかも
しれないですね。

 

信太郎さんは絵画や骨董、
株取引が趣味で、

岡崎の家には外車が三台もあって、
近所からはお金持ちと思われていた
そうですよ。

一方で、お金を貸してくれと
何度も父・信夫さんや信三郎さんに
頼んでいたんだとか。

 

父・信夫さんは
「銀行員なのに、どうしてそんなに
金がないんや」と心配していたそうです。

 

ちなみに信太郎さんが退いた後に
信三郎さんが再び会社に戻ると、

社長室は骨董品であふれていたそうです。

 

本当に骨董品が好きだったのですね。

 

あれから約10年、当時61歳だった
信太郎さんも70歳を超えています。

 

その後の信太郎さんに関する情報は
見当たりませんでしたが、

娘さんがいらっしゃるそうですし、
もしかしたらお孫さんもできて

骨董品を眺めながら、穏やかな老後を
送っているかも知れませんね。

 

信太郎さんも『カンブリア宮殿』を
通して信三郎さんの近況が知れるかも
知れませんし、

和解のキッカケになるかなぁ・・・(無理かなぁ・・・)

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

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