上沼恵美子の若い頃は歌手?姉の現在は?紅白司会も? 

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タレント・アイドル

上沼恵美子の年収は?自宅は大阪城?ユーチューブ?CM出ない?
からの続きです。

 

こんにちは。
有名人大好きのサバ夫です。

 

「西の女帝」と言われる売れっ子司会者で
タレントの上沼恵美子さんは

もともとは実姉とのコンビで漫才師として
活動していました。

 

歌手としてヒット曲も出しています。

今回は上沼恵美子さんの若い頃の
ことや実姉に関することに
ついて調べてみました。

上沼恵美子の若い頃は?

上沼恵美子さんは
1955年4月13日生まれで
出身は兵庫県です。

 

父はお笑いが大好きで
中田ダイマル・ラケットの大ファン。

その影響で後にコンビを組むことに
なる姉がお笑いの世界に入り。

デビューも決まっていたのですが。

コンビを組む予定だった相方が失踪。

父に「恵美子、おまえが行け!」となり。

即席で姉妹の漫才コンビを結成。

 

これが後に売れっ子となる
海原千里・万里のスタートでした。

 

当時、上沼恵美子さんはまだ中学1年生。

都はるみさんのファンで歌手志望
だったそうで。

「嫌よ!人に笑われる職業なんて」
最初は反抗したそうですが。

お父さんが泣いてしまったそうで。

父を泣かしてしまっては悪いと、
1、2年だけのつもりでお笑いの
世界に飛び込んだそうです。

 

結成当初はなかなか笑いが取れず。

地方の舞台に行っても宿泊所を
用意してもらえず楽屋に寝泊まり
するなどの苦労もあったそうですが。

女流漫才の海原お浜、小浜さんに
弟子入りして海原千里・万里の
名前をもらい。

姉妹らしい息の合った丁々発止の
やりとりを身に着けると
一気に漫才界のアイドル的な存在と
なります。


出典

その実力は業界内での評価も高く。

後の漫才ブームの中心人物で司会者と
しても大活躍した島田紳助さんは
修業時代に。

海原千里・万里さんが出演する
劇場に通い。

2人のネタを紙に書き出すなどで
「分析して勉強さしてもらいました」
と語っています。

 

次の項目では2人が歌った
大ヒット曲について触れますが。

人気絶頂だった1977年に姉妹が
それぞれ結婚したのをきっかけに
コンビは解消されました。

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上沼恵美子は歌手も?

海原千里・万里は歌手としても名を
残すことになります。

1975年にリリースした
「大阪ラプソディー」


出典

40万枚を売り上げる大ヒット曲となり。

現在も大阪のご当地ソングとして
歌い継がれています。

 

前述した通り上沼恵美子さんは
もともと歌手志望。

のど自慢の大会で天童よしみさんと
優勝を争ったこともあるという
歌唱力の持ち主で。

もう一つの才能を発揮するチャンスも
見事にものにしたということですね。

 

レコーディングの時に作曲の
猪俣公章さんと懇意にしている
歌手の森進一さんが現れ。

「いい曲ですね~。こんな曲、
(猪俣)先生、ぼくにもくださいよ」
と森進一さんが言っているのを聞いて。

「森さんには合わんやろ、この歌は」と
思ったそうですが実績のある歌手に
お墨付きをもらったことは心強かったそうで。

ヒットの予兆も十分にあったのでしょうね。

上沼恵美子の姉の現在は?

上沼恵美子さんは2019年、
読売テレビの「上沼・
高田のクギズケ!」で。

海原万里こと姉の芦川百々子さん
8年間ほど不仲だった時期が
あったと告白しています。

 

芦川百々子さんはコンビ解消後に
コメディアンの夢大作さんと結婚。

現在は東京都心から電車で
約1時間ほどのところの
マンションに住んでいるという
情報があります。

 

本名の芦川百々子さん名義で
芸能活動を続け。

自らを「3食昼寝付き芸能人」と
称して主婦業と両立し上沼恵美子さん
の番組にゲスト出演するなどしていますが。


出典

上沼恵美子さんが語るところによると。

「おねえちゃんの旦那さんはタレントさん
やったけど、活躍はあんまりできなかった。
収入が薄いということもあって…
それで…はい。ちょっとお助け申し上げました。
助けてます、ずっと」

これは芦川百々子さんからお願い
されたわけではなく。

上沼恵美子さんが自発的に援助して
いたとのことですが。

「ありがとうも、うんともすんとも
2年3年言うてけえへんかったから
ちょっとむかっとして」
と気分を害し。

関係が険悪になったことも
あったそうで。

 

それでも2015年に亡くなった
母の晩年に、きょうだいの仲の
良いところを見せたいと。

上沼恵美子さんが修復を決意。

また良好な関係に戻ったとのこと。

 

上沼恵美子さんの発言の後に
芦川百々子さんを直撃取材した
週刊誌もありましたが。

芦川百々子さんも
「妹がオーバーにネタとして
話している部分もありますよ。
ずいぶんと前の話ですし、
今では妹には本当に感謝しかありません」
と語っています。

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上沼恵美子は紅白司会も?

上沼恵美子さんは1994、95年と
2年連続でNHK紅白歌合戦の
司会
を務めています。

 

後に週刊文春のインタビューで
当時のことを語っていますが。

オファーがあった時はドッキリ番組
かとも思ったそうで。

「家を留守にはできない」
と断ったそうですが。

「ご主人と相談してください」
と食い下がられ。

夫の上沼真平さんに相談すると
最初は「(おせち料理の)黒豆は
どうなるんだ?」と難色を示した
そうですが。

2、3日立ってから
「恵美子、やっぱり紅白出てくれ
へんか」と考えが変わったことを
伝えてきたそうで。

「『あなたのせいで紅白のチャンスを
逃した』と一生、責められる気がする。
恵美子の人生を雑誌にたとえると、
巻頭のグラビアは結婚・出産、
後ろグラビアは紅白の司会に
なるはずやから」と言ってきたそうです。

 

しかし、NHKホールに行くと
待っていたのはいびりの嵐だったのだとか。

『「あれ誰ですか?」みたいな形で
接してくる出演者もいたし
『ホラばっかり吹いている女やろ。
本番で火でも吹いたら?』などと言われ、
『何で私を選んだんや』とNHKをを恨んだ」

 

それでも視聴率が良く上沼恵美子さんは
翌年も2年連続で司会を務めることに
なるわけですが。

「2年目になると雰囲気はガラッと
変わりました。いじめてきた歌手の
態度がころっと変わって
『いや~久しぶりやね!』と肩を
揉んでくるんです」

芸能界って本当に怖いとこなのですかね…。

さいごに

上沼恵美子さんの類まれな歌唱力を
証明するエピソードがもう一つ
ありまして。

あの大御所、北島三郎さんから
スカウトされた過去があるという
ものです。

 

海原千里・万里がまだ売れないころ。

富山県で行われた「北島三郎ショー」
で前座を務めましたが。

全く笑いを取れずに意気消沈していると。

舞台裏で北島三郎さんから
「ちょっと来て」と呼び出しが
かかります。

 

会場を盛り上げることができな
かったのを怒られるかと思いきや。

「どっちが歌ってるの?」と聞かれます。

 

当時の海原千里・万里はまだネタも
不足していて。

千里こと上沼恵美子さんの得意の
歌で場をつなぐことも多かったようですが。

その歌声は御大の耳に響くものが
あったようで。

上沼恵美子さんが「私です」と言うと。

「くだらない漫才やめて歌手になりなさい。
東京に来なさい」と言われたそうです。

 

上沼恵美子さんは「歌手になれるかも
しれない!」と喜んだそうですが。

相方の姉が暗い顔をして淋しそうに
「東京、行ってもええよ」と言うのが
いたたまれず漫才を続けることを決断。

その後、北島三郎さんの事務所社長も
大阪まで来てくれたそうですが。

丁重にお断りしたのだとか。

北島三郎さんとは
「大阪ラプソディー」が売れに
売れた後に大阪のテレビ局で再会。

「売れたじゃない!よかったね」
と声をかけられ、上沼恵美子さんも
涙が出たとのこと。

 

しゃべりの才能で厳しい芸能界を
生き抜いてきた上沼恵美子さんですが。

もしかすると歌手一本でも
売れっ子になった可能性もありそうですね。

 

上沼恵美子の旦那の職業は?馴れ初めは?姑?息子は?
に続く。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

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