富司純子の生い立ちは?父親や母親は?兄弟は?デビューのきっかけは?

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俳優・女優

富司純子の若い頃は?任侠から司会?現在は声優も?
からの続きです。

 

こんにちは、有名人大好きの
サバ夫です。

 

ベテラン女優の富司純子さんは
着物姿も良く似合い、気品にあふれて
いる印象ですが。

どのような家庭に育ったのでしょうか。

 

お父様は映画制作に関わっていた
という情報もありますし。

今回は富司純子さんのご両親や
きょうだい、そして芸能界デビュー
のきっかけなどについて調べてみます。

富司純子の生い立ちは?

富司純子さんは1945年
12月1日生まれで、
和歌山県御坊市の出身です。

 

御坊市は戦争による家族の疎開先で、
5歳で大阪市東成区へ住まいを
移します。


出典

富司純子さんの美貌は赤ちゃんの
ころから目立っていたそうで。

姉の允子(みつこ)さんによると、
「人形のようなかわいらしさで母も
連れて歩くのが自慢でした」

 

兄の正弘さんも
「周囲からきれいな顔と言われ、
学芸会でも主役をしていた」

 

富司純子さんは7歳で日本舞踊を
習い始めており。

正弘さんも「おふくろも芸の道に
進ませたかったんだと思う」
と話していますので。

 

小さな頃から周囲に芸能界入りを
意識させるような、突出した美しさ
だったのでしょうね。

 

後述しますが、富司純子さんの父は
家庭を顧みない人で。

富司純子さんの母は相当な苦労を
したようです。

 

ご両親については次の項目で触れます。

富司純子の父親と母親は?

富司純子さんの父は映画、
ドラマプロデューサーとして
活躍した俊藤浩滋さんです。


出典

40歳を過ぎて映画のプロデューサー
となるまで、俊藤浩滋さんの活動の
痕跡はなく。

若い頃は賭場に通うような生活だった
という情報もあります。

 

また、1960年代から1970年代にかけて、
暴力団の山口組の最高幹部を務めて
いた菅谷政雄さんとは幼馴染であった
ことから。

本人は「わしはヤクザやない」
と言っていたそうですが。

 

プロデューサーとしては
鶴田浩二さんが主演した「博徒」や、
高倉健さん主演の「日本侠客伝」など、
任侠の世界を扱った作品が大ヒット。

 

当時のヤクザ映画ブームの立役者
なったことからも、周囲からは
そのように見られることの方が
多かったようです。

 

俊藤浩滋さんは長らく「おそめ」の
通り名で京都や銀座の繁華街で活躍
していた伝説のマダム、上羽秀さんと
事実婚状態にありましたが。

富司純子さんの母親は上羽秀さん
ではありません。

 

俊藤浩滋さんは既婚者でありながら、
終戦後に上羽秀さんと出会うと
同棲生活を始めてしまい、

家にはほとんど帰らなくなって
しまったようです。

 

これはお母さまは相当に苦労した
でしょうね。

 

夜の街の世界で大成功している
上羽秀さんですが。

俊藤浩滋さんはほとんど「ヒモ」
の状態だったらしく。

 

上羽秀さんが富司純子さんら
俊藤浩滋さんの家族の生活費も
工面していたという噂もあります。

 

俊藤浩滋さんは2001年に死去しています。

84歳でした。

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富司純子の兄弟は?

富司純子さんのきょうだいは
お兄さんとお姉さんがいます。

 

お兄さんは俊藤正弘さんという
お名前で。

六本木で「比呂」というスナックバー
を経営しています。

 

創業は1970年。
お店は「安くてうまい」と評判で。

明石焼きや明太子ガーリックライス
など、名物メニューがたくさんある
ようです。

 

日本を代表する歌姫として大活躍した
美空ひばりさんも常連客だったそう。

 

メディアでは
「名酒場」
「伝説の飲み屋」
と紹介されることもあります。

 

お姉さんは允子さんというお名前で、
芸能活動をしていた時期があり。

1962年によみうりテレビで放送
されていた歌番組の
「ハイハイ、マヒナです」
では富司純子さんとともに
カバーガールとして出演して
います。

 

また、富司純子さんのマネージャー
として活動していたこともありますが、

一般の方だけに、その後はどうされて
いるのか情報は乏しくなっています。

富司純子のデビューのきっかけは?

赤ちゃんの頃から美貌が際立っていた
という富司純子さんですが。

7歳で日本舞踊を始めた後は
宝塚歌劇が好きになり、
当時「白ばらのプリンス」と
呼ばれた春日野八千代さんに憧れた
そうです。

 

中学卒業後は宝塚音楽学校を受験
しようとしましたが。

父の俊藤浩滋さんは
「宝塚は遠いし、夜道は危ない。
それにせめて高校ぐらいは出とかな」
と反対。

 

その頃、俊藤浩滋さんは映画の世界に
出入りしていたようですが、娘を
女優にさせるつもりはなかったようです。


出典

それでも、進学した京都女子高で
演技の勉強を始め、大阪の芸能
プロダクションにも所属。

 

17歳の時には松竹からスカウトの
声がかかったそうで、カメラテストを
受けに京都の撮影所に行った際に。

父にも会おうとそこから歩いて数分の
東映の撮影所にも出向きます。

 

そこで俊藤浩滋さんと一緒に現れた
のが、名匠として知られる
マキノ雅弘監督でした。

 

マキノ雅弘監督は俊藤浩滋さんが
自分の家に帰らず、富司純子さんが
苦労していることも知っていたそう
ですが。

富司純子さんの17歳とは思えない
憂いを含んだ表情を見て、素質を
感じたようで。

 

父は「何しに来たんだ」と素っ気
なかったそうですが、マキノ雅弘監督は
「女優になりたいんか。やるんなら、
うちでやったらどうや」と声をかけます。

 

俊藤浩滋さんは猛反対しますが、
マキノ雅弘監督が
「オレが責任を持つ」と説得。

 

デビューから名乗っていた藤純子と
いう芸名も名付け親はマキノ雅弘監督です。

 

そして、1968年に主演した
「緋牡丹博徒」が大ヒット。

 

マキノ雅弘監督の目論み通りに
富司純子さんは東映の看板女優へ
成長することとなりました。

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さいごに

2013年に和歌山県の地方紙に
富司純子さんがプライベート旅行で
御坊市に帰郷したことが紹介
されていました。

 

日高別院でお参りしたり、
小さな頃に通った幼稚園などを見て
回ったそうですが。

その旅行はきょうだい3人だった
ということです。

 

小さい頃は父親が家に帰って
こなかったりで、母が苦労する姿を
見てきたせいもあり。

3人きょうだいの結束力は強く、
年を重ねても頻繁に連絡を取り合って
いるのだそうです。

 

御坊市を訪れたのはこの時、
20年ぶりだったそうですが。

小さな頃を過ごした地をきょうだいで
回ることで、リフレッシュしたり、
初心に帰ってみたりしたのでしょうかね。


出典

富司純子さんに気付いた人たちには
写真撮影も気軽に応じるような
気さくな面もあるそうで。

 

テレビなどで見ても、真面目さや
人柄の良さが伝わってくる感じの
富司純子さん。

 

そばで見る機会があればきっとすぐ
ファンになってしまうでしょうね。

 

富司純子の旦那は?娘は寺島しのぶ?息子は?孫は?
に続く。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

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